株式会社i.D.S.
工場長
宍戸義勝

柔道の道を挫折し アパレルの世界に入る

株式会社i.D.S.の宍戸は、1979年11月11日、滋賀県大津市に生まれた。

父が大工職人ということもあり「物心つく前から、ものづくりに囲まれた環境で育ちました」。

性格はやんちゃで陽気、そして活動的。やがてスポーツに目覚め、中学時代は柔道に明け暮れた。将来を嘱望され、柔道の強豪校に進学。しかしそこで待っていたのは挫折だった。「ケガをしてしまい、柔道を続けられなくなってしまったのです」。

失意のまま高校を退学。定時制高校に通いながら就いた仕事が、現在につながるアパレル関係だった。

19歳で定時制高校を卒業後、本格的にアパレル業界に進出。名古屋大須で店頭販売から始まり、次第に企画や営業を任されるようになった。ここで再び「ものづくり」に対する面白さにのめり込んだ。

23歳で新天地を大阪に求め、アパレルのOEM製品を扱う企画会社に入社。服飾雑貨の担当になり、委託工場に出入りするうちに、革製品の製造工程を現場で学ぶようになった。次第に、納期が間に合わない緊急時には作業を手伝うなど、知らず知らずに自分自身の技術を磨くことにつながった。

27歳で取締役に就任。しかし悪いことに、その直後にリーマン・ショックが発生。会社の事情も重なり、結果的に独立することになった。これが株式会社i.D.S.の実質的なスタートとなる。

リーマンショックを景気に 独立開業の道を選ぶ

29歳に独立し、株式会社i.D.S.を設立。オフィスは自分の住んでいるアパートで、つまりガレージカンパニー同然のスタートだった。

業務内容は、カバンやサイフといった、革・布製品の企画制作と卸。顧客はほぼ新規開拓だった。
開業したのは、もちろん食っていくため。しかしそれ以上に、宍戸には強い想いがあった。

「不景気になると、製造業者はクライアントから経費節減を迫られます。そのしわ寄せは、職人さんがかぶらざるを得ないんです」。長年培った職人の技術が、余りにもないがしろにされている現実を、宍戸は黙っていられなかった。その現実を変えるには、自分自分で開業するしかなかったのだ。

宍戸自身は企画営業や卸に徹し、製造は旧知のカバン職人に委託した。仕事に見合った適正な対価を支払い、妥協を許さない製品を制作した。宍戸と職人の信頼関係があってこその協業体制だった。

高品質という付加価値は、i.D.S.の強い武器となり、次第に業界内でも名が知られる存在になっていった。委託を受けてのOEM製造はもちろん、自社開発のオリジナル製作にも積極的に取り組んだ。そして手狭になった自宅兼職場から、豊中に事務所を移転した。

未来のものづくりを見据え 若手職人を育成する

開業して4年目、宍戸は新たな挑戦に打って出る。それは製品の内製化だ。

製造業全体の例に漏れず、カバン職人の世界は高齢化が進み、平均年齢が70歳を超えていた。しかも後進の育成システムがなく、若手職人はほとんど育っていないというのが実情だった。

「このままでは未来が見えない。10年、20年後を見据え、若手職人の育成をする必要性に気付いたのです」

2013年、製造スタッフを募集。呼び掛けに集まったのは、一部を除いてほとんどが未経験者だった。「まったくの素人を一人前に育てるには、とにかく根気が必要です」と、宍戸は言う。実際に忍耐の連続だったそうだが、その想いにスタッフの一人ひとりが応えてきた。その成長の証として、現在では13人の社員スタッフすべてが、何らかの工程を任されている。

そして若手スタッフの手によるカバン作りは、伝統技術を継承しながらも、若手ならではの感性も加わり、よりi.D.S.に注目を集めることとなった。

豊中をカバン作りの聖地へ 夢は「豊中ブランド」

宍戸の次なる目標は、おひざ元の豊中市に「カバン作り」という新しい地場産業を根付かせることだ。

鯖江(福井県)のメガネ、児島(岡山県)のジーンズ。ものづくりの盛んな地は「聖地」と呼ばれる。ここ豊中でも、ものづくりに理解のある仲間が増えれば、それは不可能なことではない。

良い環境が整えば、若い職人の育成システムもできる。それはカバン業界全体の財産となる。そういった将来設計の第一歩として、就労支援活動にも積極的に取り組んでいる。

次世代のものづくりの担い手が、ここ豊中から陸続と輩出すれば、「Made in TOYONAKA」、つまり豊中ブランドの誕生も夢ではない。

宍戸はその夢の実現のため、今日も走り続けている。

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